上高地の空は曇っていて、それでも穂高の山並みは静かに見えていました。
河童橋を渡り、明神、徳澤、横尾へ。
梓川に沿って歩く道は穏やかですが、槍沢へ入るころには雨が降りはじめ、山の空気は少しずつ冷たくなっていきます。
ババ平から殺生ヒュッテへ向かう道では、ガスの中をゆっくり登りました。
すぐ近くにいるはずの槍ヶ岳はなかなか姿を見せず、ただ雲の流れを見ながら待つ時間が続きます。
けれど、少しずつ空が明るくなり、雲の向こうから槍ヶ岳が現れた瞬間、胸の奥が静かに震えました。
山頂では展望を見ることはできなかったけれど、細いはしごと鎖場を越えて立った3,180mの頂は、やっぱり特別な場所でした。
これは、秋の上高地から槍沢をたどり、雲の中の槍ヶ岳へ向かった山旅の記録です。
雨の槍沢を越えて、槍ヶ岳へ
上高地から槍沢をたどり、槍ヶ岳を目指します。
雨と雲に包まれた道の先で、槍ヶ岳はどんな姿を見せてくれるのでしょう。
秋の北アルプスを、ゆっくり歩いていきます。
曇り空の上高地から、山の奥へ

上高地バスターミナルに着きました。
空には雲が広がっていますが、まだ雨は降っていません。
これから何日もかけて槍ヶ岳へ向かうと思うと、ここが長い山旅の入口のように感じました。

河童橋まで歩くと、雲の下に穂高の山々が見えていました。
青空ではなくても、目の前に広がる山の姿は十分に美しく、これからあの山の奥へ入っていくのだと思うと胸が高鳴ります。
梓川に沿って、ゆっくり歩き始めます。
明神岳を眺め、サルたちのいる森へ

明神まで来ると、明神岳が大きく見えてきました。
上高地から少し歩いただけなのに、周りの景色は少しずつ山深くなっていきます。
人の多い河童橋を離れ、森の中を歩いていると、山の時間へゆっくり入っていくようでした。

徳澤の手前では、サルたちに出会いました。
何頭ものサルが山道のそばで過ごしていて、中には道の上に寝そべっているサルもいます。
ここでは、きっとこの子たちのほうがずっと昔から暮らしているのでしょう。
山を歩かせてもらっているのは、私たちのほうなのかもしれません。
驚かせないように、そっと通り過ぎました
徳澤で過ごす夜と、雨の槍沢へ

14時30分、徳澤に到着しました。
今日はここで一泊します。
まだ槍ヶ岳までは遠く、山旅は始まったばかりです。
森に囲まれた徳澤で過ごしていると、上高地から歩いてきた時間も、ずいぶん前のことのように感じました。

足元には、カエルがいました。
大きな山ばかりを見上げて歩いていると、こんな小さな命を見落としてしまいそうになります。
けれど山の中には、人よりもずっと小さな生きものたちも、それぞれの場所で静かに暮らしています。
そんな姿に気づけることも、山を歩く楽しさのひとつだと思いました。

翌朝、徳澤を出発して横尾へ向かいます。
9時、横尾に到着。
ここから槍沢へ入ります。
少しずつ雨が降り始めました。
空を見上げながら、この先の山の天気が少し気になります。
それでも、雨に濡れた森は静かで、木々の緑もいつもより深く見えました。
雨の槍沢ロッジで、ひと休み

10時40分、槍沢ロッジに着きました。
歩いているうちに雨は本降りになってきました。
無理をして先へ急がず、ここで少し休むことにします。
雨の日の山では、屋根のある場所に入れるだけでもほっとします。
外では雨が降り続いています。
晴れてほしい気持ちはあるけれど、山の天気は自分では変えられません。
今は雨の槍沢を、そのまま受け入れて歩こうと思いました。
雨のババ平で過ごす、静かな一夜

14時、槍沢キャンプ場のババ平に着きました。
天候が悪いためか、テント場はとても静かです。
今日はここで一泊します。
雨に包まれた山の中で、聞こえてくるのは水や風の音ばかり。
人の少ないテント場にいると、槍沢の大きな谷の中に自分たちだけが残されたような、不思議な静けさがありました。

9月3日、朝6時30分。
小雨の中、殺生ヒュッテへ向けて出発します。

水俣乗越へ向かうと東鎌尾根経由で槍ヶ岳に登ることができます。今回は槍沢経由なので直進します。

高度を上げるにつれて、歩いてきた槍沢が足元に広がっていきました。
雨とガスの中を歩いてきた道も、上から眺めると大きな山の谷の一部になっています。

8:00 天狗原分岐です。天狗原は南岳、大キレット方面です。今回は右槍ヶ岳方面へ。

蝶ヶ岳あたりでしょうか。少し天気が回復してきました。

右が東鎌尾根のヒュッテ大槍方面です。

槍、殺生ヒュッテまでもう少しです。

槍ヶ岳を開山した播隆上人が、登山の際に利用したと伝えられている岩屋です。
今のような登山道も山小屋もなかった時代に、この山へ向かった人がいたことを思うと、同じ槍ヶ岳を目指して歩いていることが不思議に感じられました。

殺生ヒュッテまでは、もう少しです。
雲の向こうから、槍ヶ岳が現れる

10時、殺生ヒュッテに着きました。
けれど、槍ヶ岳は見えません。
すぐ上にあるはずなのに、辺りはガスに包まれ、白い空が広がっています。
ここまで歩いてきても姿を見せない槍ヶ岳を、ただ静かに待つことにしました。

常念岳の方向も、最初は雲の中でした。

一時間ほどすると、流れていく雲の間から少しずつ山が見え始めました。
白かった景色の中に稜線が現れるだけで、世界が急に広がったように感じます。

横尾尾根方面です。

そして、雲の向こうから槍ヶ岳が姿を現しました。
ずっと見えなかった鋭い穂先が、目の前にあります。
晴れた空の下で最初から見えていたら、また違う気持ちだったのかもしれません。
雨の中を歩き、雲に隠れた槍ヶ岳を待った時間があったからこそ、その姿が現れた瞬間をずっと忘れない気がしました。
山は、こちらの都合に合わせて姿を見せてくれるわけではありません。
だからこそ、こうして見せてもらえた一瞬が、とても大切に思えました。



天候の悪い一日でしたが、少しずつ回復に向かっているようです。

雲に包まれた、槍ヶ岳3,180mの頂
9月4日。
ようやく雨が上がりました。
今日は槍ヶ岳の山頂へ向かいます。

殺生ヒュッテから見上げる槍ヶ岳は、その名前のとおり、空に向かって鋭く伸びていました。

これから、あの穂先へ登ります。


殺生ヒュッテから槍ヶ岳山頂までは40分ほどの道のりで、傾斜もさほどきつくありません。

高度を上げるにつれて、殺生ヒュッテが少しずつ小さくなっていきます。

9:50 槍ヶ岳山荘から先はいよいよ山頂への道です。
途中から再びガスが出てきました。

山頂までは約20分くらいで短い距離ですが、岩場は急で、はしごや鎖が続きます。
目の前の岩を一つずつ確かめながら、慎重に登っていきます。

ほぼ垂直です。あそこを登りきればいよいよ山頂です。



10時5分。
槍ヶ岳の山頂に着きました。
標高3,180m。
山頂は驚くほど狭く、周りは白いガスに包まれていました。
遠くの山々を見ることはできません。
それでも、上高地から何日も歩き、雨の槍沢を越えて、今ここに立っています。
見える景色だけが、山頂のすべてではないのだと思いました。
晴れた日にしか見えない景色があるように、雲の中だからこそ心に残る時間もあります。

少しだけ槍ヶ岳山荘の方向が見えましたが、天候は大きく変わりそうにありません。

名残惜しいけれど、山頂をあとにします。

下山もあっという間です。槍ヶ岳山頂付近の下山ルートは登りルートとは別になっているため、下りやすいです。
槍ヶ岳山荘から眺める、雲の切れ間

槍ヶ岳山荘まで下りてきました。
山頂では白いガスに包まれていましたが、少しずつ雲が流れ始めています。


さっきまで立っていた槍ヶ岳の穂先も、姿を見せてくれました。



槍ヶ岳山荘からです。少しガスがとれてきましたね。

天気が悪かったためか、人気のテント場にも人の姿はありません。
いつも多くの登山者が集まる場所が静かなことに、少し不思議な感じがしました。

槍ヶ岳山荘と槍ヶ岳

東鎌尾根も見えています。
山の上に立つと、ひとつの道だけではなく、いくつもの尾根や谷がこの場所につながっていることが分かります。
それぞれの道を、それぞれの思いで歩いてくる人がいるのでしょう。
槍ヶ岳を振り返りながら、殺生ヒュッテへ戻ります。

殺生ヒュッテに 戻りました。少し涸沢のような雰囲気もありますが、山頂までの距離が圧倒的に短いです。

夕方には激しい雨になりました。
けれど、その雨も長くは続かず、しばらくすると空はまた晴れていきました。
さっきまでの雨が嘘のように景色が変わっていきます。
晴れも雨も雲も、全部が山の時間の中にあるのだと思いました。
晴れた朝、槍沢を上高地へ

9月5日、朝5時。
外へ出ると、空はきれいに晴れていました。
昨日まで雲に隠れていた山々も、今日ははっきり見えています。
常念岳も朝の空の下に静かに立っていました。

もう一度槍ヶ岳の山頂へ登りたい気持ちも少しありました。
けれど、昨日立った雲の中の山頂も、この山旅の大切な記憶です。
晴れた山頂からの景色は、いつかまた槍ヶ岳を訪れたときの楽しみに残しておくことにしました。

常念岳もよく見えてます。

槍ヶ岳に背を向け、槍沢を下っていきます。
登ってきたときには雨が降っていた道も、今日は明るい空の下にあります。
同じ道なのに、天気が違うだけでまったく別の場所のように感じました。

槍沢をピストンします。

傾斜は緩やかなので、下山もあっという間です。

大雨の中で立ち寄った槍沢ロッジを通り、横尾へ。
さらに徳澤まで戻ります。

横尾山荘に到着しました。

徳澤からの明神岳

一番奥に見えるのは横尾尾根あたりでしょうか。

明神岳を眺めながら歩き、やがて河童橋へ。
数日前、曇り空の下でここから歩き始めたことを思い出します。
この山旅を振り返って
今回の槍ヶ岳は、晴れた景色よりも、雲や雨の中で過ごした時間のほうが長い山旅でした。
槍沢では雨が降り、ババ平では静かな夜を過ごし、殺生ヒュッテに着いても槍ヶ岳は雲の中。
山頂に立ったときも、周りは白いガスに包まれていました。
それでも、不思議と残念だったという気持ちはあまりありません。
見えなかったからこそ、雲の向こうから槍ヶ岳が姿を現した瞬間がうれしくて、雨の中を歩いた時間も、その景色につながる大切な時間だったように思います。
山は、いつも自分の思いどおりの姿を見せてくれるわけではありません。
晴れる日もあれば、雨の日もあって、何も見えない日もあります。
けれど、そのすべてを受け入れて歩いていると、ほんの一瞬の光や、雲の切れ間から見えた山の姿が、とても大切なものに感じられます。
槍ヶ岳で心に残ったのは、山頂からの眺めだけではありませんでした。
雨に濡れた森も、静かな槍沢も、足元にいた小さなカエルも、道のそばで暮らしていたサルたちも、この山旅の景色のひとつです。
人は山頂を目指して歩くけれど、本当に心に残るものは、その途中にたくさんあるのかもしれません。
またいつか槍ヶ岳を訪れる日が来たら、そのときはどんな姿を見せてくれるのでしょう。
晴れた槍ヶ岳にも会ってみたい。
でも、雲の向こうから静かに姿を現したあの日の槍ヶ岳を、私はきっとずっと忘れないと思います。
槍ヶ岳について
場所
長野県大町市平
近隣の山
- 双六岳 (距離: 6.3 km, 標高: 2860 m, 標高差: -320 m)
- 抜戸岳 (距離: 6.7 km, 標高: 2813 m, 標高差: -367 m)
- 赤沢山 (距離: 3.2 km, 標高: 2670 m, 標高差: -510 m)
- 硫黄岳1 (距離: 4.3 km, 標高: 2554 m, 標高差: -626 m)
- 南岳 (距離: 2.6 km, 標高: 3033 m, 標高差: -147 m)
- 奥穂高岳 日本百名山 (距離: 5.9 km, 標高: 3190 m, 標高差: 10 m)
- 東天井岳 (距離: 6.2 km, 標高: 2814 m, 標高差: -366 m)
- 弓折岳 (距離: 4.6 km, 標高: 2592 m, 標高差: -588 m)
- 西岳 (距離: 2.9 km, 標高: 2758 m, 標高差: -422 m)
- 中岳1 (距離: 1.4 km, 標高: 3084 m, 標高差: -96 m)
- 涸沢岳 (距離: 5.1 km, 標高: 3110 m, 標高差: -70 m)
- 大天井岳 (距離: 5.4 km, 標高: 2922 m, 標高差: -258 m)
- 樅沢岳 (距離: 4.5 km, 標高: 2755 m, 標高差: -425 m)
- 赤岩岳 (距離: 3.3 km, 標高: 2769 m, 標高差: -411 m)
- 大喰岳 (距離: 0.7 km, 標高: 3101 m, 標高差: -79 m)
- 北穂高岳 (距離: 4.4 km, 標高: 3106 m, 標高差: -74 m)
- 前穂高岳 (距離: 6.8 km, 標高: 3090 m, 標高差: -90 m)
周辺の山小屋(半径5km以内)
| 山小屋(五十音順) | 営業状況・予約 | 2食付き | 素泊まり |
|---|---|---|---|
| 大天井ヒュッテ | 営業中 2026年7月11日 (土) 〜 10月11日 (日) 予約 | 16,000円 | 11,200円 |
| 鏡平山荘 | 営業中 2026年7月10日 (金) 〜 10月15日 (木) 予約 | 14,500円 | 10,000円 |
| 北穂高小屋 | 営業中 2026年4月28日 (火) 〜 11月3日 (火) 予約 | 15,500円 | 11,000円 |
| 殺生ヒュッテ | 営業中 2026年6月6日 (土) 〜 10月11日 (日) 予約 | 16,000円 | 11,200円 |
| ヒュッテ大槍 | 営業中 2026年7月1日 (水) 〜 10月12日 (月) 予約 | 16,000円 | 11,000円 |
| ヒュッテ西岳 | 営業中 2026年7月10日 (金) 〜 10月11日 (日) 予約 | 16,000円 | 11,000円 |
| 南岳小屋 | 営業中 2026年7月11日 (土) 〜 10月11日 (日) 予約 | 16,000円 | 11,200円 |
| 槍ヶ岳山荘 | 営業中 2026年4月27日 (月) 〜 11月3日 (火) 予約 | 16,000円 | 11,200円 |
| 槍沢ロッジ | 営業中 2026年4月27日 (月) 〜 11月3日 (火) 予約 | 16,000円 | 11,200円 |
| 槍平小屋 | 営業中 2026年7月10日 (金) 〜 10月12日 (月) 予約 | 15,500円 | 10,500円 |
- 宿泊/テント場料金は?
- 温泉/風呂はある?
- 注意事項は?
などの詳細な情報は以下に記載しています。
コース
上高地から槍ヶ岳山頂へ
4日目(2019.9.4)
殺生ヒュッテ→槍ヶ岳山頂
| 出発 8:40 | 殺生ヒュッテ AM8:40分出発 |
| 9:10 | 槍ヶ岳山荘 小屋情報 休憩 9:50出発 |
| 10:05 | 槍ヶ岳山頂 |
| 11:00 | 槍ヶ岳山荘 |
| 到着 13:00 | 殺生ヒュッテ テント泊 |
5日目(2019.9.5)
殺生ヒュッテ→徳澤
| 出発 7:00 | 殺生ヒュッテ |
| 9:35 | 槍沢大曲り |
| 10:50 | 槍沢キャンプ地(ババ平) |
| 11:20 | 槍沢ロッジ |
| 13:00 | 横尾山荘 |
| 到着 14:00 | 徳澤園 小屋情報 テント泊 |
6日目(2019.9.6)
徳澤→上高地バスターミナル
| 出発 6:00 | 徳澤 |
| 到着 7:40 | 上高地バスターミナル Total時間:約20時間 歩行距離:38.6km |
特徴
- 槍ヶ岳山荘までの槍沢コースは急斜面、危険個所はほとんどない。
- 槍沢ロッジをすぎると殺生ヒュッテまで小屋はない(ババ平にテント場はある)。
- 槍ヶ岳山荘から山頂までは20分程と短いが、急峻であり、はしご、鎖場の連続。
- 山頂が非常に狭い(15人くらいしか登れない?)。
アクセス
気象情報
| 天気 | 天気(山頂) | 気温 | 気温(山頂) | |
|---|---|---|---|---|
| 9.1 | 曇り(上高地) | – | 18度(上高地) | – |
| 9.2 | 曇りのち雨(徳澤) | – | 15度(徳澤) | – |
| 9.3 | 雨(ババ平) | – | 15度(ババ平) | – |
| 9.4 | – | 雨のち曇り(槍ヶ岳山頂) | – | 12度(槍ヶ岳山頂) |
| 9.5 | 晴れ(殺生ヒュッテ) | – | 17度(殺生ヒュッテ) | – |
| 9.6 | 晴れ(上高地) | – | 22度(上高地) | – |



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